稽古場日誌

傾城反魂香 松永 明子 2017/09/11

遊女の世界 入門編 その1

『傾城反魂香』の冒頭、主人公のひとり遠山(みや)は遊女として登場する。
夢のお告げ通り現れた絵師・狩野元信に恋をするが、なぜ恋に落ちるのか、そもそも彼女の背景がイマイチ、ピンとこないため共感しづらい。そこで今回は知ってるようで知らない遊女の世界に迫ってみよう。

早速、まずは冒頭の遠山の台詞をとりあげたい。

「田舎女郎(いなかじょろう)のわたしらを京の廓(くるわ)の松さまたちと比べなさるのが間違い。」

冒頭みやは敦賀(つるが)の遊女として登場する。女郎とは身体を売る女性=遊女のことだ。城が傾くほどの美女ということで、傾城(けいせい)ともいった。京の廓は島原のことを指している。華やかな街として知られるが、対して北国・敦賀は寂れた田舎ということだろう。しかし敦賀にあっても遠山は、元信の弟子・雅楽之介(うたのすけ)に「なんと見事な。」と言わせるほどの高級ランクの遊女・太夫だった。

そもそも遊女たちはなぜ身体を売ることになったのか。
まさしくお金のためである。貧しい農家の娘が親兄弟を救うために身を売った。また、遠山の実家のように、身を持ち崩した武士の娘が身を売ることもあった。この時代、本来、人身売買は認められていなかったため、年季という期間を定めて、奉公という形での契約になったが、実質的には人身売買である。年季は10年、27歳まで。しかしこれはあくまで原則であり、子どもの場合は客をとり始めてから10年ということになっていた。借金生活はとても長かった。

買われた娘たちは廓に連れてこられ、閉じ込められる。街のいたるところで売春されては困るということだろう。逃げられないよう塀や壁、溝に囲まれた一角だった。廓は色里(いろさと)や花街(はなまち)、遊里(ゆうり)とも呼ばれた。

廓の出入り口はたった一つだけで、それが大門(おおもん)だった。木で作られた門の横には詰所が設けられ、出入りする人々を監視する。特に女性の出入りには厳しく、通行証が必要だった。遊女の逃亡を阻止するための措置である。

門に入ると仲の町の通りがまっすぐ伸びていて、その両脇に茶屋がある。さらにその後ろに遊女たちの住む妓楼(ぎろう)があった。茶屋のうち「引き手茶屋」と呼ばれる案内所が、客と妓楼の間に入り、手引きする。劇中ではお辰の経営する舞鶴屋がこれにあたる。客の指名が入ると、引き手茶屋から妓楼に使いが行き、遊女を招く。茶屋での顔合わせののち、酒宴を共にし、お開きになると、妓楼へ向かう。そこでようやくベッドインとなった。

廓には茶屋や妓楼の他にも仕出し料理屋や銭湯、神社、各種商人が身を置く商家などがあった。行商人の出入りも多く、賑やかだったという。花街ではあるが、廓の中だけで生活のすべてがまかなえた。

さて、妓楼に迎えられると、すぐ働ける年頃の娘は多少の研修を受けて店に出されたが、10歳前後の少女の場合は禿(かむろ)として育てられる。太夫などトップクラスの遊女のもとで雑用をしながら、妓楼のしきたりを学ぶ。15~16歳頃に新造となり、はじめは姉女郎の接客を手伝うが、やがて客をとるようになる。ここまでの間、少女たちの衣装代など費用は姉女郎が負担する。

自らが抱えている借金だけでなく、このように後輩や身の回りの世話をしてくれる仲間の生活費など、高級遊女になればなるほど金銭面の苦労が大きかった。そうなると、頼みの綱は馴染みの客だ。あの手この手で妓楼に通ってもらい、たくさんチップをはずんでくれるよう頼まなければならなかった。

連日連夜、こうしたことに頭を悩ませながら、不特定多数の男性たちと肌を重ねる。客がつかないと厳しい折檻が待っている。おまけに若い遊女がどんどん入ってきてランク争いも熾烈になっていく。こうした生活が10年ほど続く。

…これは疲れる! 心身ともにきついっつーの。

果たして彼女たちの生活に終わりはあるのだろうか?
次回に続く!

松永 明子

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『傾城反魂香』
2017年10月13日(金)~15日(日)
大田区民プラザ 大ホール
公演情報はこちらをご覧ください。
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