稽古場日誌

傾城反魂香 安田 雅弘 2017/09/01

《四畳半》への道のり

 「これじゃ勝負にならない!」というショックがきっかけだった。

 30代になって間もなく、フランスのアヴィニョンとイギリスのエディンバラというヨーロッパの二大演劇祭に出かける機会があった。行かれた方はごぞんじだろうが、生活に演劇が息づいているというのはああいうことだ。それを直接見聞きしてビックリしたのである。アヴィニョンでは一ヶ月に渡って毎日ほぼ5、600本のお芝居が上演されている。ま・い・に・ち、である。エディンバラに至ってはやはり一ヶ月間毎日1500本くらいのお芝居が行なわれている。とても一人で観つくすことなどできるものではない。圧倒的な量の演劇がそれぞれの町に集まっていて、しかもそれを当然のこととして楽しんでいる人々がいる。同時にそれは上演する側にとっては、その後の活動を占うショーケースともなっている。劇場のディレクターやプロデューサーに目をつけてもらって、なんとか一年間食ってこうという人たちが集まっているのである。それが分かって改めて仰天した。

 芝居を何本も見て、
「リアリズムでは到底勝ち目がないぞ。」
 と率直に感じた。役者の層の厚みだけでなく、養成システムの充実などを考えると、日本のリアリズムなんてまだまだ薄っぺらいものだと思えてしまった。当時も今も、私たちはリアリズムで上演を行なっているわけではないが、日本の新劇がリアリズムの模倣から出発したことくらいは知っていた。私が育った小劇場界では、それを横目に見ながらも、自分たちにふさわしい演技を考えたいものだという気分がみなぎっていた。といって当時リアリズムに拮抗しうる演技スタイルの具体的な萌芽が出現していたわけではない。

 演技に無縁の人は考えることもないと思うが、ある戯曲から俳優の動きを導き出すのは実は容易ではない。私も俳優をやっていた頃、どう動けばいいのかわからなくてさんざん悩んだ。そして今でも稽古場で俳優を見ながら悩んでいる。「いつもやっているようにやればいいんじゃない」とか「我々がふだん動くように動けばいいんだよ」とこの問題を放り投げてしまえば、解決は簡単だ。そして残念なことに、その状態が現代日本演劇と呼ばれるものの大半の現状である。どのように動くか、という根本的な悩みを悩んでしまうと、にっちもさっちもいかなくなる。ひと月後に本番が控えているのに、そんなこと悠長に考えている場合かよ、というのが大方の現実なのだ。そして、かなり中途半端なリアリズムらしきものが、日本の演技の世界では幅をきかせることになる。

 私見に過ぎないが、リアリズムというのは一つの様式なのである。私の言う意味は、歌舞伎や能楽の演技スタイルと形が違うだけで、その様式が孕んでいる緻密さに変わりはない、ということである。歌舞伎や能楽の演者たちが、それぞれの様式を習得するのに匹敵する刻苦勉励を、リアリズムが俳優に求めていないはずがないではないか。では、そのようなトレーニングは日本で実践されているのだろうか? 正直わからない。やっているところもあるのかもしれない。しかし見渡したところ、わが国の多くの現場ではリアリズムとナチュラリズムが混同されている。日常のごとく、いつもと同じように動くのはナチュラリズムに過ぎない。それは一見似かよっているけれどもリアリズムとは根本的にまったく異質なものだ。テレビや映画を見ても、そして舞台を目にしても私には日本の演劇界でリアリズムが定着しているとはどうしても思えない。

 私たち小劇場も全然偉そうなことは言えない。身体を軽く使い派手に動いて、大きい声を出して、情念を強く表現する、という程度のスタイルしかもっていなかった。アヴィニョンやエディンバラで突き付けられたのは、そういう自分たちのやっていることの底の浅さであった。そんなので同じ演劇の土俵で「勝負できるのか?」と迫られた気がしたのである。

 フェスティバルから戻って、猛烈に芝居を見に行くようになった。今までは敬遠していた演劇関連の本も読むようになった。そして日本人が世界でも珍しい「演劇愛好民族」であることがわかってきた。明治維新前まで、日本にはリアリズムなどなかった。私たちのご先祖さまは、現実にいそうな人物をありそうな動作で舞台に上げることなど考えていなかったのである。そうではなくて、そうした人物の典型、夾雑物を取り去ったピュアなモデルを造形することに腐心してきたのだ。それこそが私が今まで根拠のない食べず嫌いを頑なに守り、わからないつまらないと黙殺してきた能楽や歌舞伎の正体だったのである。大先輩たちは、リアリズムとはまったく関係のないところで、魅力的な演劇を作ってきていたのだ。

 それから5年ほど劇団ではスタイルの模索を続けることになる。毎回の稽古で5つくらい新しい様式候補を試してみて、もちろん全部つまらない、次のアイデアを試そうという日々が続いた。暗中模索で手がかりになかなかたどりつかない。でもやがて時々少しひっかかるのが出て来るようになった。今覚えているのは、左手は一切使わずに右手だけで感情を記号的に表現する、というもの。右手の拳骨をおでこに持って行くと「怒り」であり、右前腕部を開くと「喜び」であり、といろいろとルールを決めて『マクベス』を試演してみた。また、身体をカクカクとコマ送りのように動かすスタイルで『かもめ』を上演したこともあった。でもやってみてあまり面白くないということで、これらはボツになり、また次のアイデアということになった。

 ちょうどその頃は、【P4】と呼ばれる劇団グループ――ク・ナウカ、花組芝居、青年団と山の手事情社――が富山県の利賀村で春のフェスティバルに参加し始めた頃であった。他の三劇団の方々はそれぞれスタイルを明確に持っていて、年々それが洗練されていく。「安田くんのところは毎年テイストが違うね」と言われるのだが、納得できる演技方法が見つからないのだから仕方がない。結局利賀村には10年間通うことになる。6年目くらいに今でいう《四畳半》というスタイルがぼんやりと見えて来た。もっとも当時は《四畳半》とは呼ばずに「イライラ棒」という開発コードがつけられていた。たとえ広い舞台であっても、わざと狭い通路を通るような動きをゆっくりとする、相手のおでこに自分のせりふを届ける、というような基礎的なルールだった気がする。さまざまな作品への対応が可能で、なおかつ一目見た時に変な感じがする、というのが私には面白かった。

 周囲からはこのスタイルにこだわることへの大きな危惧が伝えられた。「やめた方がいいよ」「お客さん減らすぞ」というありがたい心配や忠告である。けれども、劇団員の総意としては「よくわからないけど、とりあえずこれをやれるところまで探ってみよう」ということになって、実はまだその途上にある。私個人としては、飽きたらやめようと考えている。芝居は《四畳半》でなくても作れる。簡単に飽きないのは、アヴィニョンやエディンバラで感じたあの夏の衝撃の余韻が今も消えないからであり、リアリズムに匹敵あるいはそれを凌駕する様式をめざしているからなのである。

安田雅弘

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『傾城反魂香』
2017年10月13日(金)~15日(日)
大田区民プラザ 大ホール
公演情報はこちらをご覧ください。
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